2024年2月25日

<再配信版 第43話 性無作の仮色>

こんばんは♪

旧正月を迎え、少し寒さも和らいだでしょうか。

今日(2018年2月)の写経会のお話より。

法然上人が18才の時師匠の慈眼坊叡空上人について学んでいましたがあるとき

天台大師チギの戒体についての話になりました。

叡空上人は「こころ(精神的なこと)が、大事だ!」と言ったのに対し

法然上人は「からだ(物質・目に見えること)が大事だ!」と主張したのです。

戒体について天台大師は 戒体不起而已 起即性無作仮色 と言っています。

今日は、少し難しくてごめんなさい。

(^_^;

上の句は戒体は、おこさずんばやみなん起こさば すなわち 性なる無作の仮色

と、読むのですが

簡単に説明しますと

たとえば車に乗るときキーを回してエンジンをかけます。でギアを入れて走り出しますがキーを差し込まなければずっと動かないままですよね。それが、一句目の意味です。

しかしキーを回してエンジンをかけるとずっと走れますよね。

その都度キーを回す必要がありません。

これが二句目の意味です。

起こさなければずっと寝ているまま。

一旦、起こしたら自然に、働きだす。

と、言ってもいいかも。

「自然に」というのが無作の仮色の内容なのですが、、、

これを日常の言葉では「無作法」といいます。

お茶室に招かれすいません。「無作法」で何もしりません。というのは、間違いです!

それは「不作法」と、いいます。

「無作法」というのはやることなすことがすべて理にかなって文句の付け所がない達人のことなのです。

それを混同してしまっているんですね。

もしかしてわざと、皮肉を込めて使っているのかも。。。

(^_^;

だって縁起は、お釈迦さまが説かれた最高の教えですが

「縁起悪い」こと言わないで、、、と、使うでしょう。

オシャカになるって「壊れてしまう」という意味でしょう。

同じく阿弥陀さまに丁寧語の「お」を付けて

オダブツ、、、って。

「一巻の終わり」というように使われますよね。

なんとも残念な話です。

(>_<)

利益もいっぱんにはリエキ と読みますよね。

お金を儲けること。。。

だけど仏教ではリヤク ですよ。

お金が儲かったり病気が治ったりいい人と巡り会えるというのは

リエキです。

ゴリヤクがある、というのは今、こうして あることをよろこべることです。

今、生きていることをステキだと、実感してあ~ありがたいなぁと自然の働きに感動することです。

そうすると顔付きが変わります!生きざまが変わります!日々の行動が目に見えて変わってきます!

心だけ変わっても、、、

すぐに心変わりしますから。。。

話が元に戻ります。

目に見える顔付きが、日常の行動が、変わってこないと、本物ではない!と

法然上人は師匠の叡空上人に言ったのです。

師匠は最初は、討論の末、腹を立てて法然上人を木枕で叩きます。

法然上人は師の前からすーっといなくなり部屋に帰っていると、しばらくして師が法然上人のところへやって来てじっくり考えたら法然、お前の方が正しい!と自分の非を認めこれからはお前を師と仰ぐと法然上人の弟子になられたのです。

これはこれですごい話だとおもいます。

親は、子どもに謝れますか?

先生は、生徒に謝れますか?

親でも先生でも時には間違いをしてしまいます。

間違いに気づき悪かったとおもったら素直に謝って

「ごめんなさい」と相手に伝えること大切なことだとおもいます。

一日、一日を真剣に生きた先人の生きざまから、私たちの日々の暮らしを見なおしたいですね。

今週もお元気で!

来週までご機嫌よう!

けいくう

☆☆

道 問えば 砂ほりやめて 浜の子は ただ笑いつつ 三日月を指す

正しさを 好まぬ人は 無きものの 欲にすべりて 踏みはずす道

                         (田中木叉上人道詠)

(この文章は2018年2月18日に送った文章に一部編集を加えた再掲載です)