2023年2月21日

<第991回の2 懺悔して(その3)>

日曜日の続きです。

三上先生はAさんにこういいました。

「もし私が貴女の息子だとしたら、同じように言ったとおもいます。」

思ったとしても、なかなかこうは、言えないですね。

(^0^;)

普通なら、よく頑張っているこのAさんに労いの気持ちをもって「Aさん、貴女はすばらしいですね。よく頑張られています。今は、子供さん達には分からないかもしれないけれど、子どもも親になったときにあなたの頑張りに気付くはずです」などと、共感を表す言葉をかけそうなものです。

しかし、それは一時しのぎのなぐさめで、今のAさん家族にとっての根本からの解決にならないですよね。

「もし私が貴女の息子だとしたら、同じように言ったとおもいます」

という

三上先生の返事を聞いたAさんは、

半ばあきれ、怒りが込み上げてきて、コワイ顔になってきています。

貴女が今の姿で学校に行ったら、「お前の母ちゃん、男みたいやな」、「魚臭い!」と友達が冷やかすのを子どもさん達は、苦々しく聞かなければならないでしょう。

怒りでいっぱいのAさんをそのままに、話を続けます。

「単に服装が魚臭いからダメだと言っているのではなく、子どもさんたちがそれを嫌っているということに、貴女は何の関心も起こらないほど、貴女が自分の仕方に何の反省もなく、それを子供らに押し付けようとしている貴女の自己中心の考え方は、どうかと思います。

なり振り構えないほどがんばっているのもわかりますが、<子供らのことを思えばこそ>というのは、実は貴女の性格であって、そこに貴女のワガママと思い上がりを感じます。

自分の性格、生き方を子どもに押し付けて、自分のいたらなさを詫びようとしないのが問題です。

貴女と同じ母子家庭の奥さんでも、きちんとした身なりでやっている人もおられます。

貴女も、なんとかする工夫をしてみてください。

もちろん、子ども達にもダメなところはあるとおもいます。

お母さんの苦労を一つも労わないで、感謝しないのはひどいとおもいますが、、、それは子ども達にお会いしたら直接、伝えたいとおもいます」と。

Aさんは、うつむいて何もいわず、黙って泣いておられた。。。

☆☆

それから、一年後。

三上先生が、Aさんの町に再び講演に来た時に

その三上先生の前に、身なりを整えたAさんが表れました。

三上先生は、「去年、お会いした魚屋のAです」と挨拶をされるまで、Aさんだとわからなかったほど、見違えていました。

Aさんの、その変化、心模様の経緯も気になりますね。

(*^_^*)

(つづく)。

と、言ったら怒られそうなので、長くなりますが続けます。

(*^_^*)

Aさんは

一年前の帰り道、三上先生に言われたことを思い出しながら、腹が立って腹が立って仕方がなかったそうです。未亡人の苦労もわからず、偉そうに勝手なことばかり言って、

私がなり振り構わずやってきたから、家族の今がある。それなのに、なんであんなことを言われないといけないのか、と。

ただ妙に、「自分の性格、生き方を子どもに押し付けて、自分のいたらなさをわびようとしない」と言われたことが心にひっかかっていました。

ある日、Aさんは配達を終えて、店に帰り、夕食後風呂に入って、帳簿も済ませて、さぁ寝ようと寝巻きに着替えてみると、三上先生に言われた「魚臭い服装!」という言葉が思い出されて、寝巻きが汗臭くヨレヨレなのが気になりました。

そこで、洗濯したのですが、ボロボロでもう着るに堪えない。思いきって新しい寝巻きを買いました。さすがに気持ちがいいので、子ども達の寝巻きも順々に新しいのに換えてやると、子ども達もすごく喜びました。

そうすると、シーツの汚れも気になり洗濯する、枕カバーも白くキレイになる。

次ぎに茶の間の畳も汚れているので、石けん水を作って、雑巾で畳を拭き掃除をする。すると、帰ってきた子どもが「今日は、お客さんが来るの?」と言ったぐらいです。

次々にキレイになると、先生が言った「魚臭い!」は、本当にそうだとおもえました。

それからは、Aさんは一日の店の仕事が済むと、こざっぱりした服に着替え、子ども等を呼んでお茶を入れたりするようになりました。

するとAさんも何となく楽しく感じ、子ども等も夜8時半になると「お母さん、お茶しようか!」と言ってくれるようになりました。

つい一ヶ月程前のある日

長男が「これ、、、」と言って、紙を私に差し出しました。

「PTA総会の通知」でした。

(◎-◎;)ドキッ!!

前の事があったので、Aさんは手紙を見ましたが言葉が出ませんでした。

黙っていると

長男「お母さん、親が学校に行かないといけないんだ」

Aさんは、「そうね。。。」と浮かない返事をしました。

A「うちは、お父さんいないしね、、、」

長男「お母さんでもいいんだよ。お母さん来たらいい。」

A「お母さんでは、いけないんだろう?」

長男「お母さんが来たらいいよ!」

すると

妹も「そうよ、お母さんが来て!」とニコニコ。

Aさんは、目じりが熱くなるのを感じました。

(子ども達は、私のことを嫌っていない!きらっていなかった!)

☆☆

Aさん、当日は、小ぎれいな服装で、PTAに行きました。

その晩、会合であったことを子ども達に話すと、子ども達はよろこんで聞いてくれました。家の中がどんどん明るくなっていきました。

☆☆

Aさんは、三上先生に言いました。

「自分が働き者」だと考え、それを子ども等に押し付けていたと、やっと気がつきました。

私が仮に働き者であっても、それを押し付けない生き方をすることで、子ども達にオモイに気づき、寄り添えるのだ。

自分は、完全ではない。

思い上がっていた。

だから、気づけなかったんだ。

そう語るAさんは、一年前とは比べられないほど、落ちついていて、働き者らしいしっかりとした口調でしたが、女性らしいもの柔らかな雰囲気をまとっていました。

それこそ、子どもがお母さんに願っていたことではないでしょうか。

☆☆

三上先生のように、苦言を呈してくれる方は、少ないかも知れません。

何かが上手くいかないとき、

自分は、一生懸命、精一杯やっているから、悪くない、、、

これで、自分では100点とおもってしまいます。

しかし、その中には

わがまま

自己中心

甘え

思い上がり

思い込み

などが、あって、

それらが、自分の至らないところを

見えなくさせてしまっている。

それに気づき、謝ると

相手をおもいやる気持ちが大きくなる。

やさしい人になれるとおもうのです。

人は、誰でも不完全なもの。

それを忘れないためにも

日々

仏さまに手を合わすことが大切です。

祈るとは、亡き人のことを偲ぶことだけではなく、

今、生きている私が自分の胸に手を当てて

生き方を仏さまに見てもらうことでもあります。

自分中心の私目線で生きているのが

仏中心の仏さまの視点で生き方を見なおしてもらった時に

ハッと気づかせてもらえることがある。

自分の至らなさを認め

素直に「ごめんなさい」と謝れる。

そうして

一つずつ、一つずつ、心を浄くしてもらえるのです。

そこに

懺悔の意味があります。

☆☆

長くなりまして

ごめんなさい。

ご覧いただき、ありがとうございました。

けいくう

☆☆

おのがはからい うちすてて ただみこころに したがえば

     一時はくらき 夕立も ひとしおさゆる 雨後の月

悪いが悪い ところにも 無理もない点 きっとある

     相手の身にも なってみて 大きくいきる おもいやり

           (田中木叉上人道詠)