2020年7月27日

<第857話 過ぎ行く景色>

今日は、日曜日の念仏会・法話、そしてF家のご法事、
その後は私の祖母の23回忌と従兄の13回忌の法事をつとめました。
会食を済ませ、お寺に帰るともう18時前。。。

一日、早いですね。
(^_^;

医者は、自分の家族を手術できないと言われていますが、僧侶も自分の家族の法事をするのは、感情が荒立って、難しいというのは、よくわかります。
しかし、12年前に兄とも言える従兄の葬儀をつとめましたので、それ以後、強くなりました。どなたの葬儀・法事でもできる、と。

ただ、今日でも従兄と別れて丸12年経っているのですが、祖母に至っては丸22年経っているのですが、今までのことがずっーと思い出されて、涙が次々溢れてきました。

今日もあらたに、祖母、従兄に「最高のさようなら」と言えました。

亡くなった当初は、苦しくて泣きました。さびしくて泣きました。
大好きだったおばあちゃんや兄ちゃんと別れるのだからと、それはそれは泣きました。

だけど、あるときから「ありがとう、ばあちゃん」「ありがとう、にいちゃん」と
言えるようになりました。今日も「僕は、強くなったよ!ありがとう」と言いました。

これが、「最高のさようなら」だとおもうのです。

そして、その最高のさようならを何回もしていくうちに、死を受容できるようになっていくのです。

お亡くなりになったた方に、心の底から、ありがとうが言えたとき、言えた人はよろこびをもって新たな出発をすることができます。

このコロナが心配される中でも、親戚が25人ぐらい集まってくれましたが、それぞれの方が「ありがとう」「しっかり生きていくね」を言えたようにおもいます。


「過ぎ行く景色に、アナタは何を見つけますか?」

「私は自分の過去をみつけます」

人生を列車の旅に喩えますと、その景色は、自分の人生に起こるできごと。
歩んできた道です。

「アナタの願いは、何ですか?」
「アナタは、何に誓いを立てて生きていますか?」

自分の過去は、歩んできた道。
「願い」とか「誓い」は、これから歩んでいく道。

どちから見ているかの違いで
それらは、言葉を変えると「私の生きざま」だと言えます。

どう生きていくのか?

今、ALS患者の安楽死が問題視されていますが、皆さまどう思われますか?

☆☆

超未熟児で産まれ、直後の三度の手術で脳障害をもって肢体麻痺の状態で文字盤によるFC(ファシリテイデッド・コミュニケーション)で、その思いを私たちに伝えてくれている、日木流奈(ひき るな)くんの文章を目にしましたので、紹介します。

事というのは、だれにでも起きうるのだ。どんなに注意深く生きていても、事に出くわしてしまうことが、人にはあるのだ。
それは、誰にでも起きると知らなければならない。
そして事に対処するために知恵を出し合い、自分ができることは何かを問い続けて行動してゆくしか道はないのだ。
(中略)
私は、伝え続けるのだ。人々が生きるのが少しでも楽になるように。どんな状態でも、そこに幸せを見いだせるようにと願いながら。
苦しいとき、苦しさを言葉にできる人でありたい。
優しさに触れたとき、心が温かくなる人でありたい。
寂しい人に出会ったとき、隣でそっと寄り添える人でありたい。
怒っている人がいても、それが悲しさから来るのか、寂しさから来るのか、怒りから来るのかを察してあげられる人でいたい。
家族として友として同志として、私は人々と生き続けたい。

私の中に愛と感謝と慈悲の心がいつもありますように、と私は願う。

そして、祈る。光が人々の心に在り続けることを

流奈君の言霊が、心に響きました。
☆☆
安楽死でお亡くなりになった方にご冥福をささげますが、流奈君にご縁があったら生きざまは少し変わったのではとおもいました。

さぁ、アナタは

どう生きてきたのか?

どう生きているのか?

どう生きていくのか?

過ぎ行く景色の中で
アナタはどんな景色を彩っていますか?

自分の祖母・従兄の法事をつとめて、私はどうなのだろうか?と
改めて考えた今日の一日でした。


一昨日、昨日、雷雨がすごかったです。

雷は、梅雨の終わりを告げるとも言われています。そろそろ暑い夏がやってきます。どうぞ体調にお気を付け下さい。

今週もお元気で!

ご機嫌よう。

けいくう

☆☆☆

須磨の浦 帆に夕映えの 汽車のまど 涙も笑みも 運ぶ都路

朝夕に 歓喜感謝の むね晴れて 希望こおどる 無量寿の旅
                   (田中木叉上人道詠)

☆☆

今日の念仏会のお話は、下記You Tubeで、ご覧頂けます。

よろしければ、どうぞ。