2024年9月1日

<第1008話 身体は誰のモノ?>

こんばんは♪

長月となりました。

昨年から、血圧が高いなぁと感じつつ、そのままにしていました。

しかし、今年の4月に病院に行き、加圧ソックスを着用して、睡眠をしっかりとるようにしていましたら、Max平均値160が、今は130台まで、下がってきました。

ありがたいことです。

身体、自分の身体のようで、そうではないですね。

アナタの身体もアナタのものではないですよ!

(^^ゞ

自分のものでもないものを自分のものと勘違いすると所有欲が増長してしまいす。

身体も仏さまからの借り物です。

大切に使わせていただきましょう。

そして、身体も仏さまからの預かりものということがわかれば、死への恐怖が少しは、少なくなるとおもいます。

(>_<)

☆☆

禅宗の五祖 弘忍が後継者を選ぶ時、サトリの境地を詩で表現しなさいと弟子たちに言いました。

神秀(じんしゅう)という頭のキレル弟子が

身是菩提樹

心如明鏡臺

時時勤払拭

莫使有塵埃

と、言いました。

身体は、これ菩提樹。心は、明鏡臺の如し。時々つとめて払拭し、塵埃をあらしむることなかれ。

身体は、サトリをひらく木のようなものです。心は、キレイに輝く鏡台のようなもの。ときどきは、キレイにお掃除してチリやアカで汚さないようにすること。

これが、サトリの境地だと言ったのです。

これに対して慧能は

菩提本無樹

明鏡亦非臺

本来無一物

何處惹塵埃

と、言いました。

菩提はもともと樹ではない。明鏡もまた臺ではない。本来は一物もないのだ。いづくにぞチリやホコリがあるのだ。

サトリとは、眼に見えるものではない。心も同じく綺麗な鏡台のようなものではない。もともと何にもないんだ。どこに掃除するチリやホコリがあるのだ。

皆さま、この二人の答えどう思われますか?

二人はそれぞれ禅宗の六代目北宗の祖・南宗の祖と呼ばれました。

私は慧能の詩が好きです。

すべては仏さまからの借り物。

そう思うと楽に生きられませんか?

今月はギュッと握り込んでいる何かを一つそっと手放してみましょう。

握り込んでしまうのは、その奥に不安や恐れがあるから。

仏さまの慈愛に包まれるとゆるんできます。

恐れで生きるか、愛で生きるか。

それを選ぶのは一人ひとりの自由です。

とらわれない、広い心でいきたいですね。

今週もお元気で。

(*^_^*)

けいくう

☆☆

慈悲の香に よいにけらしな 何事も 無けれど去れぬ 三昧のゆか

かぎりなき いのちにからだ ただ着物 脱ぎしはだかぞ 永遠の輝き

                           (田中木叉上人道詠)