2024年6月30日

<再配信版 第58話 「厄」落とし?>

こんばんは♪

先日(2019年)、京都に行って来ました。

高雄の神護寺と栂尾(とがのお)の高山寺

先月、明恵上人の話をしましたので実際に修行された場に身をおいて明恵上人を感じてみたかったのです。

高山寺は残念ながら昨年の台風で修理中でした。

神護寺ははじめて訪れたのですが、まず階段の多さに驚きました。

ハァハァ息を切らせながら境内地に参りますと見事な新緑と薬師如来さまが迎えて下さいました。

(*^_^*)

そこにしばし身を置き1200年ほど前に唐から帰朝した弘法大師 空海が14年住持して真言の基礎を築いたおもい800年前程前に華厳を広めた明恵上人のおもいを感じました。

いいお寺です。

オススメです。

紅葉のころに、また行きたいけど、、人が多いでしょうね。

(>_<)

神護寺の中に谷に向かって瓦を投げて「厄を落とす」とありました。

売店のおばちゃんにおもわず「厄」って何ですか?と質問してしまいました。

「厄」とは、災い、災難、トラブル、病気など、、、

どれも降りかかってきて欲しくはないですが、起こったら仕方ないと受け取るしかありませんよね。

瓦を投げたらそれを防げるとはおもいませんでしたが一応、谷底に向かって投げました。

(+_+)

神護寺でも修行したと思われる

西行法師の歌に

なげけとて 月やはものを おもわする かこちがおなる わが涙かな     

があります。

百人一首にも選ばれています。

意味は「嘆け」と言って、月が私を物思いにふけらせようとしているのだろうか?

いや、そうではない。月のせいにしているけど自分が涙を流しているのだ。

また、西行法師のこんな歌もあります。

こりもせず うき世の 闇に まよふかな 身を思わぬは 心なりけり

何回も何回も同じ失敗を繰り返し自分を省みないのはほかならぬ自分の心持ちですよ。

(^_^;

心の持ち方で「厄」も「益」や「薬」、「役」、「躍」に変われると思うのです。

自分に取り組むと人や もの のせいにしなくてもすみます。

→ 悪口・不平不満・愚痴・言い訳を言わなくなります。

泣いているのを月のせいにしかけて、いやいや自分の心だ!と見つめた西行法師の生き方を見習いたいです。

自分の心がコントロールできてくると「厄」が「益」に。

自分の人生に、必要なものとなり人の苦しみをやわらげる「薬」になったり

人のお「役」に立つ人になって

活「躍」できるようになりますよ。

そう考えると「厄」も私の人生にとっては必要なものではないでしょうかね。

(*^_^*)

今週もご覧いただきありがとうございました。

来週までご機嫌よう!

けいくう

☆☆

いくよ流転の 波まくら ゆられゆられて いつまでか

   うきさすらいの 旅の空 ふるさと恋し 親 恋し

招くお慈悲に さそわれて 門の戸たたく ナムの声

   答えは聞けど まだあえぬ あえぬミオヤぞ なお 恋し

                           (田中木叉上人道詠)

(この文章は2019年6月2日に送った文章に一部編集を加えた再掲載です)