2024年5月19日

<再配信版 第54話 いのちの讃歌>

こんばんは♪

今日は、写経会のテキストから

「ナムアミダブツで拝むとは、自分が偉そうにしないということです。そうすると大自然のいのちが、いのちの根源が、自分なりに感応してくる。そのありがた味が、もう時どきは男でも涙をおさえられないくらい感じてくる。それがありがたくてわたくしは生きている。一日でも生きられるということが、もったいないなぁと思うのです。お念仏とはそういうものです。

サトレないのは、心にフタをしているから。フタをとると、大自然のいのちの根源に感応してくる。そのよろこびをさとらなければ、生きていても何にもならない。

この感応、このいのちの根源との感応をよろこぶのは、いのちの交響曲ともいえる無上のものです」

(『いのちの讃歌』山本空外著述)

自分のいのちは、どこからはじまっていますか?

お母さんから生まれた日からですか?

お母さんの胎内に宿った日からですか?

卵子と精子が受精してから、いのちがはじまるのですか?

すると、卵子と精子には、いのちがないのですか?

そうではないですよね。

両親・祖父母とずっと、つながっています。

いのちのはじまりって??

質問ばかりたくさん書きましたが、質問を続けていくと自分のいのちのはじまりは

この宇宙のはじまりまで

ずっ~~~と 途切れることなく続いて行きます。

宇宙のはじまりがいのちの根源(はじまり)です。

自分のいのちと大自然のいのちとが、きちんとつながっている。

そう理屈抜きに感じられたとき、いのちそのものに「ブラボー!」って叫び声をあげたくなります。

インド人はそれを「アミター!」と言っていました。

自分が今、生きていることの素晴らしさ。

これを感じずに一生を終えたら残念です、と空外先生はおっしゃっています。

念仏、ナムアミダブツと称えると心のフタが外れて大自然のいのちとつながれる!!

すばらしいよろこびです。

今日、午後、あるお家にお参りに行きました。

お母さんが亡くなりお父さん一人になりそのお父さんも3年前に亡くなって、嫁いだ娘さんお二人が育った家を手放すので最後にお仏壇の精霊抜きのおつとめに来て欲しい、と。

そして、おつとめが終わった後妹さんが、「私、この二、三日、死にたい、死にたい!」とずっと考えていました。

お父さんが亡くなって、大好きな親友も40才そこそこでガンで亡くなってこの家もなくなってしまう

なにか、とても寂しくて寂しくてたまらなくなったから。。。

この娘さんは、子どもさんを授かったのですが流れてしまったこともあるのです。

涙で顔はくしゃくしゃです。

そっと、その方に手を当ててその悲しみを感じて、私もいっしょに泣きました。

(;_;)

亡くなった両親も 子どもも 親友も 私を見守ってくれるのを感じます。

住職さん、これってこう考えていいのですか?

そうですよ。

いのちは、すべてつながっています。

亡くなっても、大きな仏さまのいのちの中でいっしょに手を取り合っていますから。

私、流れた子ども達に、自分が仏さまのところで再びあえたとき「お母さん、がんばったよ!」っていえるように頑張って生きていきます。

住職さんの手のぬくもり、一生、忘れません。

もう自分から死のうとはおもいません。

涙、溢れました。。。。

そうですよ。

(*^_^*)

今、生きている生かされているということをよろこびましょう!

今週もお元気で。

ご機嫌よう!

けいくう

☆☆

なつかしさ 皆はらからの 切れぬ縁 ひとりのみ親 おやとせる人

光さし 見なおす意味に わく歓喜 打ち勝つ不幸ぞ 幸福のもと

                         (田中木叉上人道詠)

(この文章は2015年5月10日に送った文章に一部編集を加えた再掲載です)