2024年5月12日

<再配信版 第53話 やはり愛>

こんばんは♪

近頃のお葬式では「住職さん、戒名は必要ありません」というお家の方もあります。

皆さまは、どう思われますか?

戒名は仏さまの子どもとしての名前。

身体をもって生きている80年ほどの人生はいのちの世界の一部だとおもうのです。

大いなるいのちの世界(霊性の世界)から生まれ出て死ぬのはその大いなるいのちの世界へ戻ることだとおもうのです。

だから、俗名にこだわるのはこの身体を持っている間だけが人生だという考えなのでしょうか?

私は戒名、大切だとおもいます。

何のために生まれてきているのか?

弁栄聖者は「菩薩の天職を尽くすため」と、言われています。

大いなるいのちの世界に目覚め、そして利他のために生きること。

これが人生の目的だ、と。

その為に、三昧の修行をして仏さまと二人三脚の生活、正しく・明るく・あたたかい光明の生活を目指す。

顔を曇らせている方々の太陽になることです。

そうして、暗くて、冷たくて、寂しい顔をしている方の太陽に。

念仏して、三昧の修行をして、見仏してというのとは順番が違います。

法然上人以降、800年ほど前から弁栄聖者が出るまでは、念仏して、極楽へ往生して、還ってきて苦しんでいる方々を導くものという説き方をしていました。

しかしながら、弁栄聖者が生きているうちから菩薩の生き方ができると「自らの

生きざま」でもって示して下さったのです。

そして、光明の生活をするために三昧の修行をするのだ、と。

金剛石(ダイヤモンド)も磨かなければ美しく光りません。

与えられた時間の中でしっかり仏さまに向き合いましょう。

そして聖者の特徴は「信」とともに「愛」を説いたことです。

「愛」を説くことにより仏道修行の実践が行われるのです、と。

(*^_^*)

仏陀は無我というも 実は大我なので 愛の信の拡張を教えた。

仏陀の涅槃は愛の絶頂である。何故なれば愛の究極はやはり愛である

                    (弁栄聖者『お慈悲のたより』)

キュブラー・ロス博士も著書でおっしゃっています。

「いちばん難しいのは無条件の愛を身につけることだ。死は怖くない。死は人生で

もっともすばらしい経験にもなりうる。そうなるかどうかは、その人がどう生きたかにかかっている。死はこの形態のいのちからの、痛みも悩みもない別の形態への移行にすぎない。愛があれば、どんなことにも耐えらえる。

どうかもっと多くの人に、もっと多くの愛をあたえようとこころがけてほしい。それがわたしの願いだ。

永遠に生きるのは愛だけなのだから。」 

             (キュブラー・ロス『人生は廻る輪のように』)

弁栄聖者の「愛」とキュブラー・ロス博士の「愛」

自分の中で通じるものがあり感動していました。

この「愛」についてこれからも学んでいきたいです。

(*^_^*)

今週もお元気で!

ご機嫌よう!!

けいくう

☆☆

声声(しょうしょう) 御名(みな)を称えては 慈悲の光を仰ぐべし

身心(しんじん)弥陀(みだ)を称念し 勇猛(ゆみょう)に 励み勉めかし

金剛石も 磨きなば 日光反映するが如と 三摩耶(さまや)に

神(こころ)を凝(こら)しなば 弥陀(みおや)の光は 輝かん

                       (聖歌「念仏七覚支」より)

(この文章は2017年05月07日に送った文章に一部編集を加えた再掲載です)