こんばんは♪
明日は体育の日ですね。
世は、三連休、いかがお過ごしですか?
スポーツの秋
読書の秋
食欲の秋
秋は、いろいろ楽しめます。
空は高くなるし
風は、澄んでくるし
(*^_^*)
夜には、虫の音楽会もあります。
!(^^)!
☆
スポーツの秋、小学校や中学校で運動会の声が聞こえていました。
最近は、リレーはやるのでしょうか?
僕のころは、花形種目でしたが、、、
どんどん規模も縮小して、危なくないように、配慮がなされて、無くなっていくかもしれませんね。
そのリレーで渡すものは何ですか?
そう、バトンです。
バトンを前の人から受け取り、次の人へ手渡す。
そうしてみんなでゴールをめざします。
☆
先日、映画「おくりびと」の元になった『納棺夫日記』を書かれた青木新門さんのお話を聞きました。
最後に「いのちのバトンタッチ」という詩を紹介されました。
人は必ず死ぬのだから「いのちのバトンタッチ」があるのです
死に臨んで先に往く人が「ありがとう」と云えば
残る人が「ありがとう」と応える
そんなバトンタッチがあるのです
死から目をそむけている人は、見そこなうかもしれませんが、目と目で交わす一瞬のいのちのバトンタッチがあるのです
☆
14才の少年が祖父の死に立ち会いこんな作文を書きました。
「ぼくはおじいちゃんからいろいろな事を教えてもらいました。
特に大切なことを教えてもらったのは亡くなる前の3日間でした。
今までテレビなどで人が死ぬと、周りの人が泣いているのを見て、何でそこまで悲しいのだろうかと思っていました。
しかし、いざ自分の身内が亡くなろうとしている所に、そばにいて、ぼくはとてもさびしく、悲しく、つらくて涙が止まりませんでした。
その時、おじいちゃんはぼくにほんとうの人の命の重さ、尊さを教えて下さったような気がしました。
(中略)
最後に、どうしても忘れられないことがあります。
それはおじいちゃんの顔です。遺体の笑顔です。
とてもおおらかな笑顔でした。
いつまでもぼくを見守ってくれることを約束して下さっているような笑顔でした。
おじいちゃん、ありがとうございました」
☆
昔の人は、親の死に目に遭えないほど、親不孝なことはないと言われていました。
青木さんは、おっしゃいました。
数年前でしたか、東京都が小学5年、6年生を対象としたアンケート結果によると、
「あなたは葬式に行ったことがありますか」という質問に7割ほどが「行ったことがある」とありますが、
その中で「臨終の場に立ち会ったことがあるか」との質問の回答は、4.8パーセントでした。100人のうち95人の子どもたちは死など見たこともないのです。
昔、私の村などでは、親の死に目に現れない者は村八分になるほど非難を受けたものです。
私が肉親の死に目に立ち会うことの大切さを強調するのは、もし私が叔父の臨終の場に行っていなかったら今でも叔父を恨んでいただろうと思うからです。
葬式の現場に長く関わっていますと、憎しみや怒りが渦巻くとげとげしい家と悲しみの中にも和気が漂っている家があることに気づきました。最初、あの和気はどこから来るのだろうかと不思議に思いました。
やがて悲しみの中にも和気が漂っている家に共通しているのは、肉親が臨終の場に立ち会っておられた家であることを知りました。
ところが現代社会は、そうした場をなくしてしまいました。核家族化のせいもあるでしょうし、仕事の関係もありましょう。
また医療機関の生命至上主義が臨終の場を親族に提供しないということもあるでしょう。
そのことが当たり前のようになり、死顔など見せるものでも見るものでもないという風潮がまかり通っています。
特に死を頭で考える作家や知識人に多いようです。
死の真実は死の現場でしか知ることが出来ないのです。
私が死の現場で学んだことは、「いのちのバトンタッチ」の大切さでした。
☆
大切な人から「いのちのバトン」をもらって
今、私は一生懸命、走っています。
立ち止まっている人はお寺にお越し下さい。
手を取り合って一歩でも半歩でも、一緒に進みましょう。
次の人に、バトンを渡すまで。
今週もお元気で。
けいくう
☆☆
チロリン チロリン 虫すだく さびしき野辺も 日の照れば
嵐をしのぎ 霜に堪え 錦の秋を まつもみじ
風もなく 散る萩の葉の 浮かぶ流れの 明日 いづこ
秋はさびしき 西空に 思いださそう 星一つ
(田中木叉上人道詠)
(この文章は2014年10月5日に送った文章に一部編集を加えた再掲載です)
☆☆
昨日の写経会のお話です。
以下より、13日まで、ダウンロードできます。
よろしければ、お聴きください。