こんばんは♪
今回は、年末、第981話で<懺悔して>を書いた続編です。
懺悔、仏教読みでは サンゲ ですが、、、
サンスクリット語では
ksamaの訳と言われています。
が、正確には違います。
ksamaは、懺摩(サンマ)と漢訳されています。
それが、7世紀頃
懺摩が、懺悔と「摩」→「悔」が入れ替わって、使われています。
ksamaとは、「忍ぶ」ということです。
忍ぶって、どういう意味ですか?
お正月明けですから
百人一首で「しのぶ」を使われている句を見てみましょう。
しのぶれど 色に出りけり わが恋は ものやおもうと 人の問うまで
(平 兼盛)
句の意味は
心に秘めていたけれども、顔に出ていてバレバレでしたね。私の恋は。
「あなた恋をしているでしょう?」と人に尋ねられるほどですから。
(*^_^*)
そう「しのぶ」は、人に知られないように心に秘めるという意味です。
または
堪(こら)えるという意味もありますが、これも外に出さないでおさめるということでしょう。
一方、「悔いる」は、
自分がした行為について、間違いや悪い点があったことに気づき、残念に思ったり、反省すること。
だから、「忍ぶ」と「悔いる」は、ぜんぜん、違う意味と言ってもいいのです。
忍ぶは、内に秘める。
悔いるは、反省して外に出す。
「悔いる」は、ksamaではなくて、apatti-pratidesanaがもともとの言葉だと
中国・唐代の僧 義浄は『南海寄帰内法伝』で言っています。
apattiが、罪。
pratidesanaが、自己の非を他に対して説く。
悔いるためには、自分で気づいて、それを他の人に言って、赦しを請う。
自分の犯した罪を一つずつ確認して、告白して、赦される。
これが、apatti-pratidesanaで「懺悔」の意味です。
義浄は、また
一般的に使われる略懺悔文(我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身語意之所生 一切我今皆懺悔)の結句
「一切我今皆懺悔」に対して、私が作ったすべてのあやまちを今、(すべてまとめて、十把一絡げにして)懺悔しますというのは、仏教本来の規律ではないから、おかしいと言っています。
あくまで 懺悔 とは
犯戒(罪)→ 説罪 → 赦される
というのが、本来なのです。
仏教がインドから中国に入ったときに、インド語の音を漢字に直し、あとで意味をつけるということもあります。
翻訳者によって使う漢字が違ってくるので、本来の意味と相違してくる場合もあるのです。これが、お経を読み、解釈するときの難しいところです。
いずれにせよ
本来の意味を知るためには、原典を読まなければならない!
と
師匠 山本空外上人が、よくよくおっしゃっていたことで、そのことが少しわかったような気がします。
☆
自分の至らない所に、気がついたら
それを認めて
素直に謝りましょう!
それが
心を浄くする方法です。
私なんかは
懺悔・懺悔の毎日です。
(>_<。)
寒い日が続いていますし、コロナ感染者も増加しています。
体調、どうぞお気を付け下さい。
来週まで、ご機嫌よう。
けいくう
☆☆
おかさじと おもう下より また犯す この罪の根を たつすべもがな
千よろずの 針に刺されて 苦しまば このあやまちの 苦や癒えもせん
人は皆 ゆるすも 我は ゆるし得ぬ わが過ちに 泣かん一生
(田中木叉上人道詠)