2023年1月8日

<第985話 懺悔して (その2)>

こんばんは♪

今回は、年末、第981話で<懺悔して>を書いた続編です。

懺悔、仏教読みでは サンゲ ですが、、、

サンスクリット語では

ksamaの訳と言われています。

が、正確には違います。

ksamaは、懺摩(サンマ)と漢訳されています。

それが、7世紀頃

懺摩が、懺悔と「摩」→「悔」が入れ替わって、使われています。

ksamaとは、「忍ぶ」ということです。

忍ぶって、どういう意味ですか?

お正月明けですから

百人一首で「しのぶ」を使われている句を見てみましょう。

しのぶれど 色に出りけり わが恋は ものやおもうと 人の問うまで

                      (平 兼盛)

句の意味は

心に秘めていたけれども、顔に出ていてバレバレでしたね。私の恋は。

「あなた恋をしているでしょう?」と人に尋ねられるほどですから。

(*^_^*)

そう「しのぶ」は、人に知られないように心に秘めるという意味です。

または

堪(こら)えるという意味もありますが、これも外に出さないでおさめるということでしょう。

一方、「悔いる」は、

自分がした行為について、間違いや悪い点があったことに気づき、残念に思ったり、反省すること。

だから、「忍ぶ」と「悔いる」は、ぜんぜん、違う意味と言ってもいいのです。

忍ぶは、内に秘める。

悔いるは、反省して外に出す。

「悔いる」は、ksamaではなくて、apatti-pratidesanaがもともとの言葉だと

中国・唐代の僧 義浄は『南海寄帰内法伝』で言っています。

apattiが、罪。

pratidesanaが、自己の非を他に対して説く。

悔いるためには、自分で気づいて、それを他の人に言って、赦しを請う。

自分の犯した罪を一つずつ確認して、告白して、赦される。

これが、apatti-pratidesanaで「懺悔」の意味です。

義浄は、また

一般的に使われる略懺悔文(我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身語意之所生 一切我今皆懺悔)の結句

「一切我今皆懺悔」に対して、私が作ったすべてのあやまちを今、(すべてまとめて、十把一絡げにして)懺悔しますというのは、仏教本来の規律ではないから、おかしいと言っています。

あくまで 懺悔 とは

犯戒(罪)→ 説罪 → 赦される

というのが、本来なのです。

仏教がインドから中国に入ったときに、インド語の音を漢字に直し、あとで意味をつけるということもあります。

翻訳者によって使う漢字が違ってくるので、本来の意味と相違してくる場合もあるのです。これが、お経を読み、解釈するときの難しいところです。

いずれにせよ

本来の意味を知るためには、原典を読まなければならない!

師匠 山本空外上人が、よくよくおっしゃっていたことで、そのことが少しわかったような気がします。

自分の至らない所に、気がついたら

それを認めて

素直に謝りましょう!

それが

心を浄くする方法です。

私なんかは

懺悔・懺悔の毎日です。

(>_<。)

寒い日が続いていますし、コロナ感染者も増加しています。

体調、どうぞお気を付け下さい。

来週まで、ご機嫌よう。

けいくう

☆☆

おかさじと おもう下より また犯す この罪の根を たつすべもがな

千よろずの 針に刺されて 苦しまば このあやまちの 苦や癒えもせん

人は皆 ゆるすも 我は ゆるし得ぬ わが過ちに 泣かん一生

                 (田中木叉上人道詠)