2022年11月13日

<第977話 生仏一如>

こんばんは♪

今日は、久しぶりの雨。

ずっと晴れ続きだったから

雨もたまに降ればいいとおもいつつ

雨が降っていると

晴れないかなぁと空を見上げる。

つくづく自分勝手だなぁと

おもう。

自分の思い通り物事が進めばいいなぁ、と

よくおもってしまう。

だけど

心臓も自分が動かしているわけではなく

手足もそう。

目が見えるのも

耳が聞こえるのも

声が出るのも

味わえるのも

すべて自分がエライからできるのではない。

自分でしているのではない。

命は、生きているのではなく

授かって、生かされている。

師匠の空外上人は

その命の根源を「アミダさま」と言われた。

アミダさまとは、お寺にお祀りされている仏像も阿弥陀さまだけど、、、

命の根源だ! と。

普通は、その「アミダさま」のおかげがわからずに生活している。

それを自分勝手という。

自分が稼いだお金で、自分が生きている!

自分の家、自分の車、、、この身体も自分のもの!

というように。

そうした

「生きている」という生き方から

命の根源のアミダさまのおかげに気づくと

「生かされている」という生き方に変わる。

何が起こっても

命の根源に「ナムアミダブツ」で、立ち返ると

勇気も百倍になり、少々の災難も気にならなくなる。

手が動くのは、お金に変えられない。

すべてが、プレイスレス。

それを祈りの中で、実感していく。

自分は「アミダさま」のおかげで生かされていることに気がつくと

「アミダさま」を拝むのは、自分を拝むことにもなる。

同じく

自分を拝む(自分の身体に感謝するなど)のは、「アミダさま」を拝むことになる。

お念仏を称えて、礼拝すると、自分を拝むということが実感する。

礼拝すると「拝まれる自分(=真実の自己)」がハッキリしてくる。

拝まないと、拝む自分がわからず、ただ損だ!得だ!と一喜一憂して、喜んだり、イライラしてしまう。

自分を生きること、それは生かされている自分に気づき、自分が拝めるようになること。

それが、それこそが祈り。

アミダさまを拝むことが、自分を拝むことになると

本当に、ハラの底からわかると、

天地自然の命とつながってくる。

それを「生仏一如(しょうぶついちにょ)」という。

「生」は、衆生、私たちのこと。

私が仏さまと一つながりということ。

インドの言葉ではサマーディー(三昧)。

念仏をするから、はじめてそうなるのではなく

もともとそうなんだけど、目先の損得を計算し、利害を考えるから、仏さまと離れてしまう。

だけど、その損得を考える、利害の心があったから、他の動物ではなく人間として命が進化したのかも。

利害の心も時と状態によっては、必要なもの。

その上で、また、命の根源に生きる生き方にもどる。

今日は少し、難しい話となって、ごめんなさい。

(m_m)

☆☆

祈りとは

アミダさまを拝むことが、自分を拝むことと同じと実感していけるもの。

自分の身体は、自分のものではなく、アミダさまからの借りもの。

心臓が動いていることに

空気が吸えることに

食べ物を食べれて、排出できることに

目が見えることに

音が聞こえることに

声がでることに

手に

足に

この身体、すべてに、感謝!

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

雨が上がると

寒くなるようです。

どうぞお身体!ご自愛ください。

アミダさまですから。

(*^_^*)

けいくう

☆☆

  かぎりなき いのちに身体 ただ着物 脱ぎしはだかぞ 永遠の輝き

  ああとうと ああああとうと ああとうと 輝きたもう 大ミオヤさま

                         (田中木叉上人道詠)