2022年4月10日

<第946話 識の話(後半)>

こんばんは♪

キレイに咲いていた桜も

風に舞って

ヒラヒラと

散り始めています。

この引き際の良さが、なんとも風情があり

いいですね!

今週は

識の話の後半です。

第8識の阿頼耶識は、

蔵識とも訳されるように、過去においてしてきたこと、現世でしてきたことなどの業を入れておく蔵なのです。

蔵は、

大切なものを保管する場所ですから、普段は、使いません。

阿頼耶識に入っている業も、普段生活しているときには、おとなしくしていて顔を出しません。

しかし、何かがあると

蔵の扉が開くのです。

その何かとは、

無常感

無力感

挫折感

喪失感

罪悪感

不足感

孤独感

などという

キーワードが

蔵の鍵穴に、はまったときです。

扉が開くのです!!

すると

無意識の世界が、ドーンとやって来て

悲しかったり

寂しかったり

こわかったり

やるせなかったり

などを感じてしまいます。

開いた扉がすぐに閉まったらいいのですが、、、

扉は勢いよく開きすぎて、そのまま外れてしまいます。

(>_<。)

すると

その穴をふさごうとします。

何かを埋めようとします。

私もよくやってしまいます。

しかし

これが、ドツボにはまっていってしまうのです。

なぜなら

ふさげないほど、勢いよく次から次からでてきますし

深い深い奥行きで、底が見えないから、埋めようとしても埋められないからです。

焦って埋めようとすればするほど、どんどん穴は大きくなって、どうしようもなくなってしまいますから。

物や他の人で、空いた穴を防ごうとすると、一瞬は、防げたように感じることがあります。

しかし、それは、メッキを塗るのと同じ。

いつかは、はがれてしまい、、、

より大きな穴があらわれます。

(゜◇゜)ガーン

こう書くと、これだけでもこわいような気になりますよね。。。

心配しなくても

いいんです。

何かをすればいい!

このメルマガをご覧の方は

わかりますよね?!

そうです。

「南無阿弥陀仏!」と称える

お念仏をすればいいのです。

( -人- )

南無阿弥陀仏 

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏

空いた穴に、阿弥陀さまが入って下さる!

そうすると

理想や完璧な自分像を捨てることができて、

ダメダメな自分を受け入れることができるのです。

ちゃんと自分を受け入れられるようになります。

自己受容ができると、無意識から吹き出してくるネガティブ感情は、弱まってくるようにおもいます。

これが、念仏のすごいところです。

☆☆

『成唯識論』という書物のなかに

「転識得智」という言葉があるのですが、、、

識を転じて、智慧を得る。

如来さまの四つの智慧の話は、かなり難しいので読み飛ばしてください。

眼・耳・鼻・舌・身の前五識を転じて、「成所作智(じょうしょさち)」

第六意識を転じて「妙観察智」

第七末那識を転じて「平等性智」

第八阿頼耶識を転じて「大円鏡智」を得る。

念仏の中で、識が智慧に転じていくのです。

阿頼耶識の中に、どんな業が入っていようとも、すべて如来さまの智慧に転じていくのです。

それぞれの智慧の働きは、またいつの日かゆっくりと書きたいとおもいます。

簡単に言うと

自分のいのちを自分なりに全うする生き方ができていくということ。

師匠の言葉を借りて、だいぶ難しく言うと

識と智と相応していく心の悟入の深まり具合は、いずれもみなつながり合って、いわば何十億年ものいのちの進化が各各生かし合いつくしてまさに計量を離れ、阿弥陀(無量)の平等の慈悲におさまる。それを各自なりに全うする生き方が南無阿弥陀仏の念仏でできる。この四智は、われわれ自身の生活がその真実をみのらすためにある。

難しすぎて、何のことやら、、、

ですよね?

(>_<)

理屈は横に置いておいて

自分で何かをしなければというのをお念仏をして、阿弥陀さまにおまかせしてしまう。

扉をふさがなくても、底なし沼のように、底が見えなくても、

ダメな自分でも、キラキラと輝く人生を送っていけるのです。

それが、汚れのない、第9識阿摩羅識の世界です。

弁栄聖者は、

「娑婆は凡夫が阿頼耶識でみる世界である」という言葉に続き

「人間世界のことは蠅にはわからない。今ここも仏界であるが見えない。一心に念仏せよ、極楽がここにあらわれてくる」と言われています。

一心に念仏を称えれば、極楽というところに往けると言われているのではなく

「極楽がここにあらわれてくる」と言われたのです。

冬の寒い世界も、いつしか梅が咲き桜が咲いて、同じ場所が暖かい春の世界に変わっていくように

心が暗く、寒く、寂しい状態であっても、如来さまの智慧の光に照らされて、そこで、そのままキラキラと輝く極楽世界になっていくのです。

阿頼耶識の業に飲み込まれて、ツライ・苦しい・寂しいとこの世界を娑婆に感じて過ごすのも人生。

そこを抜けて、阿摩羅識の世界、仏さま在しまして、輝ける心の状態になり、極楽世界を生きていくのも人生。

どちらを選んでもいいのですが、、、

それを選ぶのは私の責任。

う~ん。。。

今日の話は全然、わからないという方は、、、

わからないまま一緒に、お念仏しましょう。

私も、わかっていないことを知ったかぶりして書いているだけですから。

(>_<。)

わからなくても、お念仏しましょう!

今月末は、春の別時念仏会があります。

都合のつく方は、是非、お参りください。

南無阿弥陀仏

けいくう

☆☆

  大慈大悲を やどさねば 世の憂き雲が 気にかかる 

    心の空に 気をはらす 大慈大悲の おんすがた

  大慈大悲の みちびきに 声をまかせて 称うれば 

    かよう心の 澄みわたり ひろびろ晴るる 胸の空

                 (田中木叉上人道詠)