2022年4月3日

<第945話 識の話(前半)>

こんばんは♪

今日は

朝の法話で、弁栄聖者のこんな一文が出てきました。

「娑婆は凡夫が阿頼耶識でみる世界である」。

おわかりになりますか?

ほとんどの方が、「はっ?」という顔をされるとおもいます。

娑婆(しゃば)とは、刑務所から出てきた方が、タバコに火をつけて

「シャバの空気はうまい!」というその娑婆です。

一般には、この社会のこととして使われますが、「忍土」とも訳され、煩悩や苦しみの多い世界、理不尽と思えることが起こる世界、堪え忍ばないといけない世界のことです。

それは、凡夫(一般の人)が、阿頼耶識で見ているからだと弁栄聖者は言われるのです。

次に、阿頼耶識(あらやしき)という

また、難しい言葉が出てきました。

だから今回は簡単に、

仏教でいう「識」の話をします。

一般の言い方だと「心」です。

仏教では

八識とか九識として

心を分類していますが、

一番目から五番目そして六番目は

1.眼識

2.耳識

3.鼻識

4.舌識

5.身識

そして

6.意識

です。

心は、幸せになりたい!

楽しみたいとおもうものだと、

考えるとわかりやすいです。

1.眼識:目で見る楽しみ。形や色、景色、表情など。

2.耳識:音を聴く楽しみ。音楽や自然の音、人の声など。

3.鼻識:香りを嗅ぐ楽しみ。料理の匂い、花の香り、木々の香りなど。

4.舌識:味わう楽しみ。甘い、辛い、酸っぱい、しょっぱいなど。

5.身識:触れる楽しみ。固さ、やわらかさ、暑さ寒さ、痛い、心地よい、風を切るスピード感など

第1から5を前五識といいます。

所謂、感覚器官を通しての楽しみです。

第6の意識は、1~5を統括して、記憶する、判断する、考える、命令するなどの働きで、

読書とか映画鑑賞とか、数学の問題やパズルを解くとかの楽しみです。

1~6は、意識の世界です。

そして

7~9は、無意識の世界に入っていきます。

7. 末那識(まなしき)

8. 阿頼耶識(あらやしき)

9. 阿摩羅識(あまらしき)

です。

7.の末那識は、自我のことです。自分の知らないところで、いろいろなことに執着する自我のこと。

この末那識と向き合うことが、とても大変なのです。

自分のわがままの出所。そこを認めて行かないと、愚痴・不平・不満の生き方になってしまい、幸せから遠ざかってしまいます。

で、八番目にやっと阿頼耶識くんが、出てきましたね。

(*^_^*)

アーラヤというのは、蔵(くら)という意味です。

インドの北に

ヒマラヤ山脈がありますが、

あれは、ヒム アーラヤの合成語で

ヒムは、雪。アーラヤは、蔵。

いつも雪が積もっている山という意味です。

普通は蔵というのは、大切な物をしまっておく場所なのです。

阿頼耶識に何をしまっておくのか

仏教では「業(ごう)」がそこに記録されていくのです。

過去・現在・未来の

行ってきたこと

言ったこと

考えたこと

「業」です。

毎日

母屋(意識の世界)ではみんなが生活して、賑やかにやっていますが、

蔵(無意識の世界)は、普段はとても静かです。

しかし、何かあると

蔵の扉があいて、中のものが出てくるのです。

一般の人は、作ってきた業、今作っている業、これから作る業によって世界を見ている。

弁栄聖者は

この阿頼耶識で、現世をみると、娑婆に見えますよ!

あなたが今、この世界を

苦しみの多い世界、つらい世界に見えているなら、それは

阿頼耶識から見ているのですよ、といわれているのです。

では、どうしたらいいのか。。。

もう少し書きたいのですが、、、

長くなりますので

今週は、これぐらいで。

(*^_^*)

桜の花が、とてもキレイですね。

春を楽しみましょう!

花冷えとも言われます。

体調にお気を付けて。

来週まで

ご機嫌よう。

けいくう

☆☆

  肩はかえても 荷はひとつ ひとつすんでも またひとつ

    むねに気がかり たえまなき 重荷を負うて 何処へゆく

  あわば心の闇はれん たのし三昧 春の旅

    声にお慈悲の 山彦の ひびくもうれし 南無の歌

                   (田中木叉上人道詠)