2022年3月6日

<第941話 読書百遍>

こんばんは♪

だいぶ温かくなってきて

お寺の紅白の梅も仲良く、ほころんでいます。

白梅は、ほぼ満開。

紅梅は、咲きはじめです。

梅に、かぎらず花はどうして

咲く時期がわかるのでしょうね。

不思議です。

何とも、ありがたいです。

毎週日曜日、念仏会のあと、少しお話をさせていただいています。

各週にテキストがあり、それをテーマにお話をするのですが

毎週、苦労しています。

もとより勉強不足・経験不足ですから。

ですが、お話をする上で、気をつけていることは

今日なら今日のお話の箇所(2,3ページです)を、何回も何回も

繰り返して読みます。

わからなくても、読みます。

わからないから、読みます。

「読書百遍意自ら通ず」

わからなくても、100回読めば、なんとなくわかってくるものがある。

これは、実感しています。

その中で、関連する話題などを、限られた引出の中から、探して繋いでいきます。

ですから、土曜日の晩は、それで頭がいっぱいになります。

それでも、拙い話しかできませんが、熱心に聞いて下さる方に励ましていただいてなんとかかんとか30年以上、毎週続けています。

繰り返し読むということは、

解説書を読むことと、少し違います。

たとえば

私なんかよくしてしまうのですが、、、

美術館に行きますと、作品を見ますよね。そして、作品をチラッと見たら、横のパネルをみて、年代や作者、「解説」に目を通して、再度、チラッと作品を見て、フムフムとわかった気になって、次の作品に行き、同じことを繰り返していく。

皆さまは、いかがですか?

どのように鑑賞されていますか?

芸術家は、感覚的にこの世界の真理や本質を、それぞれの個性・技法で、表現しているはず。

小説家さんなら文章でそれを表現するでしょうが、画家さんは言葉では表現できないから絵に描き、陶芸家さんは焼き物で表現している。

たとえば、真・善・美・愛・神仏・永遠・時空間などなどをです。

それを「解説」の言葉で、わかった気になるのは、作品の良さをどれだけわかるかというと、果たしてどんなものかとおもいます。

私など、ほとんどわからない部類の1人ですが、それでも何回か美術館に足を運ぶうち、今日はこの作品が良かったというのを一つは持ちかえるようにして、心の引出に入れていると、それも回数がものをいって、少しはその良さを感じられるようになってきた気がします。甚だ、あやしいものですが。

テキストに使用している山崎弁栄聖者のご本や、山本空外上人のご本は、念仏をした上での宗教体験が文章で書かれているので、お念仏をして、何回も読まないとわかりにくいのです。自分は、幸い先ほど書きましたように、たまたまお話をさせていただく立場ですので、毎週それに取り組めるのは、ありがたいなぁとおもっています。

いのちは、大きく循環し、恒久的につながっている。

同じことを繰り返し、繰り返し、繋がっている。

だから、少々の気温の誤差があっても、花は咲く時期がきたら、花を見事に咲かせる。

そこに、大自然の真理が、現れていますね。

美しく咲いた花を前に、じっくりと語りかけてみて下さい。

何回も何回も。

参考に、小林秀雄さんの文章を一部現代語の仮名使いに直して紹介します。

「見ることは、しゃべることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(スミレ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのも止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙ってものを見るという事は難しいのです」(美を求める心」より)

本当のものは、心の眼でみるもの。

その眼を閉じないように、お喋り(知識・おもいこみ・偏見)をせず、黙って見ると、世界が変わって見えるかも。

繰り返し、繰り返し、本を読むと見えてくるものがあるかも。

繰り返し、繰り返し、お念仏を称えていると、わかるものがあるかも。

今は、わからなくても、続けてみませんか。

(*^_^*)

三月にはいりましたが、

三寒四温。まだまだ寒い日もあります。

どうぞ体調管理にお気を付け下さい。

今週もお元気で!

けいくう

☆☆

  咲き出るも 散るも同じ あめつちの 大き流れを はこぶ紅梅

  散らば散れ やがてみのらん 梅の花 うたえ鶯 「時」の魅力を

                  (田中木叉上人道詠)