2020年10月27日

<第870話 ある時には>

こんばんは♪

今日は、通照院の秋の別時念仏会でした。

コロナの影響で、半日の開催でしたが30人ほどの参詣者があり、熱心にお念仏をしました。

その席で、少しだけお話をしました。

その内容の一つに

法然上人が12の質問に答える「十二箇条問答」の第8番目の問答を取り上げました。

質問:「念仏している者は、いつもどんな心で生活すればいいのですか?」

これに対しての法然上人のお答え

「あるときには世間の無常なることをおもひて、この世のいくほどなきことをしれ。

ある時には、仏の本願をおもひて、かならずむかへ給へと申せ。

ある時には、人身のうけがたきことはりをおもひて、このたびむなしくやまんことをかなしめ。

(中略)

ある時は、あひがたき仏法にあへり。このたび出離の業をうゑずば、いつをか期すべきとおもふべき也。

(中略)

ある時には、わが身の宿善をよろこぶべし。

(中略)

かようのことを、おりにしたがひことによりておもふべき也。」

ある時にはこの世が無常であることをおもいなさい。生まれたら死ぬ。形ある物はいつか壊れる。人生80年と言ってもあっという間!ということを知りなさい。

ある時には、仏さまがお救いくださることをおもって、念仏しなさい。

あるときには、こうして人間として生まれたことがいかに有り難いかをおもい、虚しく過ごさないようにしなさい。

ある時には、仏教にご縁があったこと、前世から受け継いだ善があったことをよろこびなさい。

このようなことを折りにしたがって、起こる出来事によって思い出しなさい。

と、答えられました。

「ある時には」が、私には何ともありがたいです。

質問者は、「いつも」どんな心で生活すればいいですか?と尋ねているのに

法然上人のお答えは「ある時には」です。

ある時にはって、「たまには」、「時々は」です。

サボリである私にズバッと「アナタは、いつも仏さまをおもっているなんて無理でしょう?」と見透かされているようです。

そういう意味で「ある時には」って、すごくやさしいお答えだなぁとおもいます。

別時念仏会の別時とは、この「ある時」なんです。

「時々、別時の念仏を修して、身をも心をも、励まし、整え、進むべきなり」

たまには、特別な集中念仏を行って、身を引き締めて、自分を調整して、日頃の生活をしなさいということなのです。

これをご覧いただいている皆さまにとっても、今日が「ある時」にしてみませんか?

自分が、人として生まれてきたこと、よろこんでいますか?

人生がいつまでも、あるとおもっていませんか?

今の状態が「当たり前」って、おもっていませんか?

まわりの人に感謝していますか?

自分がしていることだけが正しいとおもっていませんか?

自分勝手ばかりしていませんか?

私は、自分の胸に手をあてて、「いたたぁ!」とおもいました。

自分で、お話しながらです。

(>_<。)

ついつい自分のことばっかり。

先日も「いつも自分中心だね!」って注意してもらいました。

(>_<)

注意してもらえるのは、ありがたいこと。

病気になっても、ケンカをしても、それを将来に生かすように祈るんです。

まわりの皆んなと仲良く、楽しくするために、注意されたら気をつけて、あやまって感謝して、豊かな未来を作っていきましょう。

悪口を言われても、失敗しても、「いつか笑える日のために」進んで行きましょう。

生きているとは、動いていること。

すねてうずくまって、かたまっていませんか?

どんなに足が重くても、歩みをとめなければ、きっといいことありますよ!

(*^_^*)

今週も読んでいただき、ありがとうございました。

このメルマガもアナタの「ある時」に、少しでも役に立っているとうれしいです。

朝晩、寒くなってきました。

ご自愛下さい。

来週まで、ご機嫌よう。

けいくう

☆☆

足らぬ自分の力では 越すに越されぬ この峠 まもるお慈悲のみ力で 越されぬままに越せてゆく

有為の奥山 この山を こゆりゃふるさと 花の里 夕映えはゆる 雲のおく 大悲のミオヤ 待ちまもう

                        (田中木叉上人道詠)

秋の別時念仏会の法話を下記のアドレスよりご覧頂けます。

よろしければ、ご覧下さい。