こんばんは♪
暑い日が続きますね。
雨がサッと5分降ってくれれば2時間の水まきが助かるのに、、、
と
空を見上げては、長靴を履き、ホースを手に、散水しています。
水をまきながらおもいます。
南方戦線でお亡くなりになった方々は、さぞや暑かったでしょう。水が欲しかったでしょう。。。
今日は、そんなお話です。
☆☆
先週の日曜日、8月15日の読売新聞の朝刊に
「戦後75年 終わらぬ夏」の最終回の記事がありました。
京都産業大学名誉教授の所功(ところ いさお)先生の話でした。
所先生のお話は、通照院に長年、指導に来て下さっていた蒲郡市の荻野圓戒(おぎのえんかい)先生から、お聞きしていました。
所先生のお父さんは、昭和18年7月28日の朝、敵の集中射撃に遭い、戦死されました。
それから12年後、中学一年生になった功さんが、戦没者の追悼式に参列する時、お母さんが戦死公報を見せます。
「ソロモン諸島ニュージョージア島ムンダノ戦闘ニ於テ、腹部砲弾破片創ヲ受ケ、戦死セラレ候」と。
それから母に宛てたお父さんからの手紙も「熱い南海の地で日夜元気にご奉公致し居る」「どうか立派に功を育ててくれ」と。
ちなみに、この手紙の検閲をされたのが、荻野先生なのです。そう荻野先生は、所さんのお父さんの上官だったのです。
追悼式に参列している時、いつかニュージョージア島に行き、父の墓標を建てたいと中学生の功さんは、誓ったといいます。
所先生が30才になった時、厚生省が遺骨収集団をソロモン方面に派遣しました。それで、厚生省に問い合わせてお父さんが荻野先生の部下だとしり、荻野先生の寺へ連絡がしました。
荻野先生は、200人以上の部下を戦地で失い、自身も砲弾を受けて瀕死の重傷を負っています。私の身体には、19個の破片が残っているとおっしゃっていました。荻野先生は、砲弾で飛ばされたときに、感覚の世界を越えたもう一つの世界の体験をされています。
一命をとりとめた荻野先生は、覚えている限りの部下の名前を巻紙に書き、毎朝お水とお香をあげて回向されていました。だから名古屋から神戸にご指導に来て下さるときも、朝、おつとめをしてから始発で通照院に来られていました。唯一、阪神淡路大震災のときだけ、前泊されましたが。。。
荻野先生の部下の中に、所さんのお父さんの名前がありました。
所さんは、荻野先生にいいました。
「この夏、父のところに行きます。それも父さんが行ったように、船で。」
その半年前に遺骨収集団が行ったばかりで見つかった遺骨は灰にして埋葬し、遺留品は持ち帰って判明したものは、家族へ返しています。
荻野先生は「行ったところで、何もみつからないかもしれないが、墓標を建てるなら行く意味があるでしょう」と
所さんのお父さんが亡くなった場所の地図を書き功さんに渡しました。
島民は、その地図を見て、功さんを案内しました。
所先生の記事から。
突然「カム・ヒア」と呼ばれ、駆け寄ると、倒木の根元に弾痕の残る飯ごうや小銃、割れた鉄兜など一人分の装備が散乱しています。
なんと飯ごうの中ブタには、<所>と刻んである。
それを手にした時、「功、待っていたぞ!」という父の声が聞こえたそうです。
「これは、父の遺書だ」そう思えて、地に伏して、泣き叫びました。
それから、遺骨も見つかりました。
ちょうど30才で父が亡くなった8月27日から29年経った命日に、30才になった息子、功さんが遺骨と遺留品を手にしたのです。
☆
大勢の方が、半年前に一週間も滞在して、探して、ほとんどのものを持ち帰ったはずなのに、どうして、功さんのお父さんの遺留品・遺骨はみつからなかったのでしょう。
息子さんが、行ったら簡単に目に付いたのはどうしてなのでしょう。
感応道交。
身体のある我々が今住んでいる世界と、この感覚を越えたもう一つの世界とが、行ったり来たりして交わること。
荻野先生は言いました。
「息子さんが夏休みを利用して、飛行機でさっと行って、それを本に書くと売れるだろうな」などとやっていたら感応道交は、起こらない。
とにかくお父さんの亡くなったのと同じ30才になったのだから、せめて現地まで行って墓標を建てて差し上げたいという本当に純粋な心、まごころで行ったから感応道交が起こったのです。
この感覚の世界を越えたもう一つの世界を洞察することができればいいが、それができないと金や物だけに幸せを求めるようになってしまう。
物質的なことと精神的なこと、その二つがそろわないと幸せになれない。この身、こころを浄めていくと、自然と感応道交は起こります、と荻野先生は話されました。
☆☆
今日が地蔵盆のところも多いとおもいます。
このお盆の時期は、コノ世とアノ世の境界線が薄くなっているときです。
その時に、手を合わせ、もう一つの世界を洞察し、ご先祖方に感謝し、幸せに生きていきたいです。
暑い夏も、少しずつ涼しくなっていきます。 もう少しの辛抱。
私は、多くのご先祖から応援してもらっている!! ことを感じて、コロナもそうですし、この残暑を乗りきり、実りの秋を迎えましょう。
お元気で!
ご機嫌よう!!
けいくう
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日盛りの 玉なす汗は 流すとも 稲はみのらん その暑さみぞ
風鈴の 気にいらぬ風 いる風に かわらぬ音の いつも涼しき
(田中木叉上人道詠)
☆おまけ☆
所先生がお父さんの遺骨と遺品を持ち帰り床の間に飾ると、お母さんは無言でじっとそれを見つめていました。
そして「これが父さんの飯ごうだよ」と声をかけると、母は「よう迎えに行って来てくれたなぁ」と一言。あとは、鉄兜や小銃をさすっていました。
翌朝、お母さんは一転して明るくなりました。農家に嫁ぎ、26才で夫を亡くし、残された田畑を守り、所先生を育てたお母さんの戦争が30年経って、やっと終わりを告げた日でした。
啓空の祖父も、同じようにニューギニアで戦死、しかし何も帰ってきませんでした。祖母は死ぬまで、祖父を待ち続けていました。
遺品・遺骨があること、葬儀ができること、とても大切だと祖母の姿をおもい浮かべてはしみじみおもいます。
その祖母も、今年の9月2日で、23回忌を迎えます。( -人- )