2020年5月10日

<第846話 三昧の境地>

こんにちは♪

ステイホームウィークも終わり、少しはコロナの終息も見えてきたでしょうか。

いやいや、まだまだ、油断はできませんね。

☆
今日の写経会も、参詣者なしで行いました。

その後、お話したのですが

写経会は、『いのちの讃歌』がテキストです。

今日の講読箇所は143ページ終わりから2行目です。

「自分の心を浄められると、花を見ても、鳥の鳴き声を聞いても何倍も深い味わいがある。花をみて、花のいのちを楽しもうとおもったら自分の心が浄らかでなかったらいけない。(中略)花を見て泣く方さえいる。心の浄らかな人は花のいのちに触れて、何十倍もその美しさを感じることができるからです。」

この箇所について

日本画家 上村松篁先生の自伝を引いて、お話しました。

上村先生は、一ヶ月ほど毎日毎日、画室の近くの里芋畑で葉の写生をしていました。

ある日の夕方、写生していると、かなり離れたところからサラサラ流れる水の音が聞こえてきて、それがだんだん大きくなり、近づいてきたように感じた。しかし、里芋の畑には水が流れてきていない。その次に、分厚い感じの風が吹いてきた。そして意識が無くなり、音と風が身体を包んだというのです。

20分ぐらい忘我の境地を体験したあと、芋の葉に合掌して、感謝が湧いて、涙が溢れたと述懐されています。

上村先生は、自然の本体に触れ、自然の声を聴いたとおっしゃっています。

「実在を知った喜び」とも「霊気に触れた感動」とも言われています。

            (『私の履歴書』ー日本画の巨匠 上村松篁の項 参照)

☆☆
この忘我の境地を「三昧(さんまい)」といいます。

一つのことに、集中して、そのものになりきる状態です。

ゾーンに入るとも言われます。

別時念仏会で、何日も朝から晩まで、仏さまに向かい手を合わせていると、三昧の状態になることがあります。そこでは、時間も空間も消え、すべてが美しく、ハッキリしている世界です。

どこかに、出かけなくても、呼吸を深くして、一つのことに集中していると、心は広々とした世界に羽ばたくことができます。

弁栄聖者は、難思光の讃で、

「甚深難思の光明を 至心不断に念ずれば 信心喚起の時いたり 心の曄瞳(あけ)とはなりぬべし」と仰っています。

実在に触れることを「心の夜明け」とか「心の曄瞳(あけ)」といいます。

心を浄めるとは、この自然の本体に触れていくことだとも言えます。

そうして、いのちに触れると人生がとても豊かになります。

日々、手を合わせて、心を浄めていくこと、とても大切です。

自粛期間が終われば、是非、お寺にお越し下さり、一緒にお念仏いたしましょう。

三昧の境地、せっかく生まれてきたのですから、いのちがあるのですから、体験しましょう!
( -人- )

すべてが光かがやき、心の奥底から、感動の涙が溢れてきます。


☆
今日、紹介しました上村松篁先生は、三昧体験のあと「朝」という作品を描かれています。
ご本人もこの作品から自分の画格が上がったとおっしゃっています。機会があれば、ご覧下さい。


☆
どこに行かなくても、今いるところが幸せだと感じられる。

何かをしなくても、自分のことを大切にできる。(卑下しない、他人を羨まない)

幸せな人は、生きている奇跡を、しっかり味わっている。

このコロナの自粛期間には、それを実践できる貴重な機会ですね。

南無阿弥陀仏

今週も
ニコニコと過ごしましょう!

けいくう

☆☆☆
一心帰命 うちこみし ナムアミダブツの端的に
      邪気も邪念も はらわれて 獅子奮迅の 勇気わく

見る人もなき 岩かげに つつましくさく ひな菊の
      花一輪に あめつちの さかえあらわす 日本ばれ
                        (田中木叉上人道詠)

ご意見やメルマガへのご意見・ご感想お待ちしております。

☆おまけ☆

今日の法話です。

「三昧の境地」 講師:啓空住職

よろしければお聴きください。
(*^_^*)
   ↓ ↓ ↓

前半:https://www.youtube.com/watch?v=YOU1pIREwpw

後半:https://www.youtube.com/watch?v=XUJw9MCMIoU